映画『嘆きのピエタ』ーカネと愛といのち

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※ネタバレあり
 
 キム・ギドク監督の『嘆きのピエタ』。キム・ギドク監督は俺が今、最も気になる監督の一人で、今回はじめて映画館で観れるとなってワックワックで映画館へと向かった。これまで観た監督の作品は、『サマリア』、『コーストガード』、『悪い男』、『ブレス』の四作品だけだし、別に俺はシネフィルってわけでもないし、たまにキドクとギドクを間違えるくらいだから、映画論や監督論みたいなのをぶつことは出来ない。悪しからず。
 
 
 今日は朝起きて、一日、水分意外何も口にしてなかったので、腹ごしらえに映画館へ行く途中松屋に寄って、牛丼を流し込むように食べた。そして繁華街を一人、テクテク歩いて目的の映画館へ。土曜の夜とあって、いつもは人が少ない映画館も結構な人がいて驚いた。キム・ギドク監督の映画をわざわざ映画館まで観にくるっていうだけあって、なんだかいかにも映画通のよう人が一杯いて、俺、場違いじゃねぇの?って感じて、少し帰りたくなったりした。
 
 映画の内容は、生涯孤独に暮らしてきた借金取りの男ガンドが、突然母と名乗る女、ミソンと出会うことで、それまでの冷徹だった彼の心が次第に和らいでいくものの、そのウラでミソンは人知れずある決意をしていた・・・というもの。うーんなんだかうまく説明できんな。
 
 で映画の感想なんだけど、結論からいうと、これまでのキム・ギドク作品に比べると凄い見やすかった。途中、途中に、ああいかにもキム・ギドクっぽいなって描写はあるんだけど、全体として、ちゃんとエンターテイメントしてるように見えたし、なんとなくだけどカタルシスすら感じて、びっくりした。観る前はキム・キドク作品だから、もっとグッチャグッチャのものを予想してたんだけど。あ、だけどカップルが観に行っちゃいけない類の映画であることは間違いない。
 
 キム・キドクの映画を観てて困るのは、笑っていいのか悪いのか判断に迷うところが何箇所も出てくるところ。今回でいえば、たとえばガンドとミソンの出会いのシーン。なぜか生きた鶏を鷲掴みにして真顔で歩いてるガンドが、滑って転んで鶏を逃がしてしまうんだけど、その逃げた鶏を拾ったのがなんとミソン。ハンカチ落として恋にお落ちる二人、どころの話じゃない。鶏を落として再会する親子。二人の出会いってこんなんでいいのかってなって、笑いそうになった。なんだか俺にはその意味がわかんなくて、なんで鶏なんだ?なんかのモチーフか?
 
 また、ミソンが自分の母親だと信じられないガンドが、ミソンのことを試すシーンがあるんだけど、ガンドは自分のアソコの一部をナイフで切り取って、ミソンに食べれるかどうか聞く。俺の母親なら食べるはずだ!って。それを観て、ああそういうやあこれ、キム・キドク映画なんだよなって無意味に思ったりさせられた。
 
 ただ、映画全体にそういった可笑しさみたいなのばかりが溢れてるかっていえば、そんなことはなくて、やっぱりテーマ自体はとても重い。ガンドの仕事が借金取りで、取り立て先がいかにもカネに困ってそうな町工場。ガンドは滅茶苦茶な取り立ての仕方をするので、工場の人から悪魔のように思われるわけだ。例えば、工場の機械に服を巻き込ませて腕を切断させたり、廃ビルから蹴落として足を骨折させたりすることで得た保険金で借金を支払わせていたから、恨まれるし、復讐されても無理はない。
 
 悪魔のようなガンドも可哀想なやつで、母親の愛を知らずに育って、冷酷無比な借金取りになってしまった。だけどもミソンと出会って、だんだんとミソンに甘えるようにすらなるところなんかはやけに可愛げがあったりした。だけども結局それは勘違いってなるわけだから、もしかしたら一番可哀想なやつかもしれない。町工場の人間達は少なくとも、誰か愛する人なり、愛される人をもっているのだから。
 
 カネが絡む映画は観ていてやっぱり息が苦しくなる。カネで狂う人、夫婦、親子。ただ、ただ必死で生きているものの、カネに困り、高利貸しでカネを借りたのは彼ら自身で、それは彼らの責任ってのはあるのかもしれないけど、本当に彼らだけの責任かっていえばなんか違うような気する。社会的にそういう町工場みたいなところで作る部品の発注なんかはドンドンと労働力の安い外国に行っちゃってるわけだから、カネに困って、資金繰りに困るってのは必然的だ。
 
 そんなキツイ状況の中、とある工場一筋50年の爺さんがガンドに問う。カネとはなんだ?いのちとはなんだ?それを問う爺さんの顔は恨みとも、諦めとも言えない、それまで人生を生き抜いてきた男の顔をしていた。それからガンドがミソンに問う、カネとはなんだ?ミソンは、意味ありげに答える。全ての始まりであり終わりだと。復讐であり、いのちであると。
 
 奨学金を結構な額借りてる俺はまったくもって他人ごとじゃなく、カネに困る町工場の人たちを観ていた。彼らの生きている顔。喧嘩をしながらもなんだかんだと想い合う二人の夫婦。母親思いの息子。生まれた子のためなら片腕をなくすことも厭わない父親。身体に障害を持ち、絶望して死んでいく男たち。これは俺の未来の姿かもしれない。他人ごとじゃない。日本学生支援機構がこんな悪どい取り立てをしてるってのは聞いたことないけれど、将来なにがあるかわからない。
 
 カネがない人間は生きている資格はないのか。死んで当然なのか。カネを稼ぐことができないような能のない人間は死んで当然なのか。自己責任なのか。カネのない人間は死んだ、愛の無い人間も死んだ。じゃあカネもない愛もない俺は?
 
 帰り道、そんな言葉がブンブンと俺の頭の中で鳴り響いていた。