積極的な読書と消極的な読書

 雨が降ったり止んだりの休日。朝から俺はとっ散らかった書棚周りを整理していた。というのも日頃書棚から出した本は元に戻さず、自由気まままにそのあたりにポイと置いてほったらかしにしてしまうため、書棚の周辺に本の山が形成され、俺の部屋のスペースを侵食しつつあったたからだ。
 
 最近ずっと口ずさんでいるEaglesのDesperadoという曲をBGMとしてダラダラと整理をしていると、出てくる出てくる、探していた本。そしてそれらをいちいち中身をチェックするため中断する書棚整理。結局すべての整理が終わらず、夕方になってしまった。
 
 少し整理した書棚を眺めると、一貫性がないと思っていた自分の読書遍歴にもそれなりの志向が見られるように感じ面白かった。だけども一画が仏教系の本で占められるこの書棚を人に見せることは出来ないと思いもした。もし読書というものが人の内面に何らかの影響を及ぼすとすれば、この書棚の本を読んだ人間は社会性に乏しく、斜に構た嫌味な奴と予想できるだろうか。
 
 本が人の内面にまで侵食することは多かれ少なかれよくあることだと思う。それが積極的に知識を血肉化する目的でなされたことか、もしくはその本に読者が食われるように、つまり、無意識のうちにその思考が侵食されるように、消極的になされたことかはともかくとして。
 
 俺の場合、前者ではなく後者の場合であることが多い。俺にとって読書は娯楽そのもので、暇な時間を潰すため、そして嫌な現実を忘れるために行うものである。なので、そのようにして読んだ本は知識という形で俺の内面に定着するのではなく、無意識への影響という形で定着してしまう。そこにはほとんど俺の取捨選択がない。そのため良い影響も悪い影響も受けていると思う。そしてその影響は日頃の俺の思考に影響を与えている。このことは一度読んだ本をしばらくして読み返してみるとよく分かる。俺が日頃考えていたことが読み返した本にそっくりそのまま書いてあったなんてことことが起こるのだ。
 

読書は、他人に物を考えてもらうことである。

          『読書について』 ショウペンハウエル

 それで何の不都合があるのかという思いもあるが、気に入らない思想に無意識に影響をうけるのはやはりどこか気分が悪い。だからショウペンハウエルが言ったこのことを今一度重く受け止めて今後の読書に励みたい思った7月の夕暮れであった。